トリスタンにこだわって天使といっしょにワークする
昨日の続き
□Noism1 『Liebestod-愛の死』『Painted Desert』の感想
同じく、Noismの舞台を見た方々の感想をいくつか見ていて目についたものを下記紹介。
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踊り手と振付家の生贄の関係性が
これまで以上に
振付家が絶対的な対象への生贄として
その精神を捧げた作品であり
振付家自身が生贄に為りえるために
不可欠な唯一無二のミューゼが
限られた舞台上の時間に
永遠性の死という不条理の空間の中で
自らの存在を極限まで
軽量化して肉体を超えた
精神に成ったことで
愛を獲得したのを観ました。
□Natur-karuizawa さんのインスタグラムより
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音声無き身体表現の舞踊は、内なる物語を構成する想像力を涌現し、鋭く深く刺激してこその前衛であると思えた。
テレビのように情報を与えられ受け身となるとは対象的である。
□杉本博司さんtwitterより
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トリスタンとイゾルデは、もともと、愛や死のapotheosisであるが、その神聖化を、舞踏がさらに一段「高い」ところに導くことが可能なことを金森さんは示した。
その高さは、むしろ軽やかで、個別性の悲劇を超えたものなのである。
舞台を特徴づける「金」の表象が、愛や死といった人間にとって大切なモティーフを、その本来のプラトン的世界へと接続するのだ。
そもそも、「愛」は誰に属するのだろう。「死」は、誰に属するのだろう。
トリスタンとイゾルデは、この命題についての長い哲学的対話で知られるが、金森さんは、前奏曲から愛の死への流れの中で、人間の身体、精神、関係性の永遠に不可思議な三角形について、見事な表現を示した。
□茂木健一郎さん ブログより
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以上抜粋。
いやー、一体どうやったら、こんな文章が書けるのだろうか。
こんな文章は、永遠に書けないなと思いつつ、感動を言葉にするということはどういうことなのだろうとしばし考える。
感動を言葉にできないのはある意味当然で、それは言葉が具体的なもので、感動はそれより抽象度が高いからだ。
言葉は、抽象的なイメージを切り取って、具体に落とす。
それが効率的な伝達方法でもあり、逆に言えばそれしか方法がなかったから、あとは組み合わせで、なんとか抽象度の高い次元を表現しようと頑張るしかないのだろう。
しかし、具体的な言葉の扱い方次第で、摩訶不思議にも抽象度の高いものを表現できる人たちがいる。
本来は、どんなに言葉を重ねても、ポロポロとこぼれていくところを、違うアプローチで、まったくそのものではなくとも、例えばある光によってできる影(断面)のようなものみたいに、違う次元で成立させる人たちがいる。
村上春樹を筆頭に、作家と呼ばれる人はそういう人たちだろうし、勿論、絵や彫刻や色々な表現方法があるのだろうが、今日はあえてテキストにこだわってみると、そんな中で「批評」という文化について思いが及ぶ。
「批評」というと、なんだか偉そうに評価するようなイメージがあるが、本来は違うものであるのだということを下記、稲葉俊郎の文章によって気づかされた。
□『創造の源泉へ』
この文章を読んでいると、「批評」を軸に、「言葉」や「文化」、果ては「芸術」や「人間」の本質にまで触れている気がして、気づきが多い。
自分自身は、頭で考えてばかりで(分析しようとするばかりで)、もっと「芸術」をそのまま「体」や「心」で受け取れるようにならなきゃと常に反省ばかりだが、それと平行して「言葉」で表現する訓練もやはり必要なのだろうと、最近ようやく思えるようになってきた。
そういう意味では、今年になって意地になって続けているブログも、そういった訓練と言えるのかもしれない(始めた動機としては、なにか日々に”かせ(ルーティン)”を作りたいということだったのだ)。
ちなみに上記の稲葉俊郎さんの文章は、下記イベントに際してのコンセプト文です。
□「イデア~時代を切り開く者たちの良心~」
第1回ゲスト:宮前 義之(ISSEY MIYAKE デザイナー)
基本は、アカデミーヒルズ会員様向けのクローズドなイベントですが『P』でも、いくぶんかの枠がもらえそうですので、近日公開いたします。
そしてNoismの公演は、明日(日付変って今日)も最終日公演があります。当日券もあるようですので、ぜひ駆けつけてください。損はさせません!!
□Noism1 『Liebestod-愛の死』『Painted Desert』埼玉公演
販売価格情報、トリスタンクチコミ情報サイト
これからスーツケースを見つけ、バスにて帰宅。『トリスタンとイゾルデ』公演をはじめ、ブログ記事を書き投稿予定。