結局最後に笑うのは南こうせつだろう

南こうせつ

お父さんのための南こうせつ講座

読売新聞の「時代の証言者」というコーナーに南こうせつさんが連載されております。

この日の記事は・・

この日は♪「マキシーのために」の話が書いてありました。

作詞家の喜多條忠さんの初めての作品なんだそうですね。放送作家だった喜多條さんに、歌詞をお願いしたそうで、当初は「ピラニアのために」という学生運動家の女性の事を書いた歌だったそうですよ。その女性がピラニアというあだ名だったそうです。

レコード会社から「ピラニアのために」じゃ売れないと言われ、当時流行っていたマキシルックをもじって「マキシーのために」となったそうです。

♪マキシ―のために/かぐや姫

?

YOU-TUBEで聞いてみたら想い出しました。

当時、兄貴がフォークソングをよく聴いていたので、それを盗み聞きしてましたですね~。この頃のフォークは殆どがこの様に盗み聞きしておりましたのでなんで何となく覚えておるのです。

喜多條さんはそのあと、♪「神田川」や♪「妹」の作詞。キャンディーズの♪「やさしい悪魔」♪「暑中お見舞い申し上げます」も作詞されておりますですねぁ~。

SHOGUNの「男たちのメロディー」も喜多條さんの作詞。テレビドラマ「俺たちは天使だ!」の主題歌でした。

♪男達のメロディー/SHOGUN

かっこええ。

南こうせつであらゆる困難と闘うページ

今日は、南こうせつの「夢一夜」を聞いている。

 

 若狭徹の「古代の東国1前方後円墳と東国社会 古墳時代(吉川弘文館)」(以下「若狭論文①」という)は「集団移動と弥生社会の変容」について、いかのようにいう。

 

「関東における古墳時代へのプロローグは、東海地方からの人の動きと連動して進んでいく」

 

「弥生中期後半の宮ノ台期の遺跡が多数分布したが、後期には一転して集落が少なくなり、そこに東海系の外来土器が多量にみられるようになる」

 

 相模湾の「花水川流域の王子ノ台遺跡(神奈川県平塚市)では、東遠江(静岡県の天竜川以東地域)に起源をもつ菊川式土器が移入し、主体を占めて」おり、「相模川流域では、東海地方でもより西方の三河(愛知県東部)・西遠江(静岡県西部)にルーツをもつ山中式土器が移入されてい」て、「例えば綾瀬市神崎遺跡は、長辺一〇〇m。短辺六五mほどの広さをもつ環壕集落であるが、出土土器の九割以上が東三河系・西遠江系の特徴を示しており、しかも地元の粘土で焼かれていることから、移住者が定着した」と考えられる。

 

 「南武蔵北部(埼玉県南部から東京都北部)でも外来系土器が多数みられるが、こちらは相模の花水川流域と同じ菊川式土器が目立っている」

 

「このように弥生後期には、東海東部の複数の地城を本貫とした集団が、相模・南武蔵北部に大々的に移住したことが知られる」が、「それは二世紀のことであり、二世紀の後半に倭国が乱れていたという中国の歴史書「魏志」の記事にも関連した現象」であり、「倭国成立直前の社会動態と東国は決して無縁ではなく、むしろ連動した人の動きに翻弄された」と考えられる。

 

若狭論文①が指摘するように、「弥生後期には、東海東部の複数の地城を本貫とした集団が、相模・南武蔵北部に大々的に移住した」ことは確かである。

 

若狭論文①は、その年代が「二世紀のことであ」るとするが、それではその年代幅は100年間にわたるので、そうした移住が「二世紀の後半に倭国が乱れていたという中国の歴史書「魏志」の記事にも関連した現象」であったというならば、その移住自体が2世紀の後半に起こったことであるということになる。

 

なお、「魏志倭人伝」に書かれた「倭国乱」は、以前「邪馬台国の所在地について」などで論述したように、西日本全域を範囲としたものではなく、博多湾沿岸諸国と有明海沿岸・筑後川流域の諸国の間の戦争であった。

 

ここからすれば、「倭国乱」に余波を受けて、東海地方の人たちが関東地方南部に移住してきたということは考えられないことである。

 

しかし、それはそれとして、こうした移住の年代を検討することにする。

 

 以前「若狭徹「東国から読み解く古墳時代(吉川弘文館)」を読んで」で論述したが、比田井克仁の「関東における古墳出現期の変革(雄山閣出版)」(以下比田井論文という)によれば、「東海の人々が関東に到来するのは弥生時代後期Ⅱ段階からであ」り、「まず、相模湾岸へ三河・西遠江の人々が山中式土器をもたら」し、「相模湾岸と武蔵野台地に東遠江の人々が菊川式土器を携えてきた」が、その後も「これらの地域との交流関係は継続され」、弥生時代「後期Ⅲ段階になると」、「山中式に後続する欠山式土器や菊川式土器新相の土器が流入」している、という。           

 

なお、ここで「後期Ⅱ段階」や「後期Ⅲ」段階とは、比田井克仁が南関東地方の弥生式土器を、壺の「形態変化を数値処理」し「三大別6細別」した「比田井の南関東編年」によるものである。

 

そして、南関東編年と豊岡畿内編年との関係は、後期Ⅰ段階古相が第Ⅴ様式2段階、後期Ⅰ段階新相が第Ⅴ様式3段階、後期Ⅱ段階古相が第Ⅴ様式4段階、後期Ⅱ段階新相が第Ⅴ様式5段階、後期Ⅲ段階古相が第Ⅴ様式6段階、後期Ⅲ段階新相が第Ⅴ様式7段階であるとしている。この第Ⅴ様式7段階は、纏向編年では纏向1式となる。

 

比田井論文から、「東海の人々が関東に到来するのは」、畿内第Ⅴ様式4段階から第Ⅴ様式5段階にかけてのことであった、と考えられる。

 

ここで、弥生時代後期の土器の編年を検討する。

 

「AMS年代と考古学(学生社)」所収の高倉洋彰の「交差年代決定法による弥生中期・後期の実年代」(以下「高倉論文」という)によれば、弥生時代後期の実年代は以下のように推定されるという。

 

「森貞次郎が作成した北部九州の弥生土器の型式編年図で」は、「弥生時代の土器を、甕形土器の口縁部を主軸としたプロポーションの変化から前中後の3期に大別し、各期をさらに3小別している」が、この「森編年を基礎に、北部九州で調査された遺跡から出土した石器・青銅器・鉄器・木器などの遺物を、型式学的そして層位学的に検討して時系列にまとめ、北部九州の弥生文化の発展過程を説明する」と、「第一~五段階」なる。

 

「各期の時期相を略説」すると、第一段階は縄文時代末(夜臼式単純期)から弥生時代前期後半(板付Ⅱa式期)までで」、「第二段階は前期末(板付Ⅱb式期)から中期中ごろ(須玖式期)に相当する」

 

この時期は「福岡市吉武高木遺跡や佐賀県吉野ケ里遺跡のように、朝鮮半島から朝鮮青鋼器文化第Ⅲ期の青銅製武器が伝播し、生産工具が磨製石器から鉄器へ変化」し、「遺跡数の飛躍的な増加や遺物の多様化、交流・交易圈の拡大、そして墳丘墓や大型掘立柱建物が出現する点に、定着した農耕社会のなかに後に国・王とよばれる存在の原形(クニ・オウ)が形成された段階」である。

 

 「第三段階は中期後半(御床式期)で、工具とともに武器の鉄器化か進行する」が、「それは漢化の進んだ朝鮮半島の原三国時代の影響であろうし、漢との直接的な交流の開始でもあ」り、「漢との外交を前提とし、その権威を背景とした権力の存在も、糸島市三雲南小路墳丘墓や春日市須玖岡本墳丘墓の構造、銅鏡・ガラス璧・金銅四葉座飾金具などの副葬品に反映している」

 

「「漢書」地理志にいう倭の百余国の実態がそこにあ」り、「第二段階に形成されたクニ・オウが、漢によってまとまりのある地域社会とその統率者としての国・王として認知された段階が第三段階」である。

 

 「第四段階は後期初頭から中ごろの段階(高三瀦式期・下大隅式期)は基本を第三段階と同じくするが、鉄器生産の量産化や青銅製武器の儀器化の完成など、前代に受け入れや漢文化や浪化を遂げた朝鮮原三国文化などを、自己の文化として昇華」し、「倭文化は完全に漢文化の傘下に入ってしまう」が、「その象徴が倭奴国王の外交とその実績を示す「漢委奴国王」金印である」

 

 「第五段階は後期後半~末(西新式期)に相当する。北部九州が先取りしていた鉄器文化が列島の各地に定着し、銅鏡に関する習俗が東伝するなど北部九州と東方地域の交流が活発化する」が、「それは北部九州の主導するものではなく、近畿系土器の九州への伝播に示されるように、近畿を主軸とする列島内部の大規模な交流の一端である」

 

 「中国製の銅鏡を使用する交差年代決定法とよぶ考古学的方法」によれば、 「朝鮮半島製の凹面鏡である多銀鎖文鏡が第二段階から登場するが、凸面の中国鏡は次の第三段階からにな」り、「第三段階の銅鏡は北部九州の限られた遺跡に集中する前漢鏡で」あり、「第三段階の銅鏡は、前漢鏡が1墓、もしくは1遺跡に集中して副葬される傾向をもっている」

 

 「第四段階になると、異体字銘帯鏡の一種である昭明鏡などの前漢型式の鏡も残るが、内区に細線で表現される四神を配し、外縁を波文・鋸歯文や朧雲文で飾る、方格規矩四神鏡・細線式獣帯鏡などの王莽鏡とよばれる流麗な後漢鏡が、前半の主流になる」が、「全体に数を減じ、1墓への集中も減少している」

 

 「第四段階の後半は、鏡副葬の減少期であることと、時期を明示する土器棺を用いる甕棺墓葬の衰退期であることが重なってやや明瞭差を欠くが、佐賀県一本谷遺跡例などから、方格規矩四神鏡に替わって「長宜子孫」系の銘をもつ四葉座銀内行花文鏡が主流になる」。

 

 「第五段階は長宜子孫系内行花文鏡の盛行期だが、四葉座銀から煽端座鏝へと、紐座に変化がみられ」、「編端座鉦内行花文鏡の系譜に連なる獣首鏡の系統の鏡が副葬され」、「さらにこれまでの文様を平彫りする手法から浮き彫り式に隆起させる新たな手法の半肉彫式獣帯鏡や半円方格帯神獣鏡なども、ごく一部ながら登場するようになる」が、「これらの銅鏡は中国では後漢の末期に普及する」

 

 「中国鏡は当然中国本土で多数出土し、時期決定の有力資料として活用されている」が、第一期、第二期、第三期前半、同後半、第四期、第五期、第六期に区分した「中国河南省洛陽市の焼溝漢墓と西郊漢墓で検出された293面の銅鏡を参考にその変遷」は、「漢代における銅鏡の出土傾向を簡潔に物語って」おり、「倭(北部九州)の銅鏡の出土傾向」と比較すると、「その出土傾向は見事なまでに一致している」

 

「第三段階(弥生時代中期後半)の遺跡から出土する前漢鏡は、清白鏡を中心とする異体字鎔帯鏡の時期で、しかも後漢鏡は検出されないから、洛陽ではその第二期および第三期前期に一致する」

 

「墳墓構造や五銖銭などの分析を経て導きだされた焼溝漢墓第二期の年代は宣帝の後半から元帝代まで(前64年~前33年)で、第三期前期は成帝代から王莽の摂政期まで(前32年~後6年)とされている」ので、「中期後半が前1世紀の後半代にあたる」

 

 「第四段階前半(後期初頭~前半)からは方格規矩四神鏡を中心とした後漢鎮が出土する」が、「中期後半の遺跡からまったく後漢鏡が出土せず、後期の遺跡に副葬されること自体に、両期の境が前漢と後漢の相違を正確に反映していることを示している」

 

「第四段階に副葬される方格規矩四神鏡と細線式獣帯鏡に前漢異体字銘帯鏡系の昭明鏡が混在する条件は、洛陽では焼溝漢墓の第三期後期~第五期に相当するが、第四段階には基本的に長宜子孫系四葉座鐙内行花文鏡を欠くから、第三期後期~第四期に併行する」ので、「第三期後期は王莽新から後漢光武帝の建武15年まで(7年~39年)で、第四期は建武16年から明帝代まで(40年-75年)とされるから、北部九州の弥生時代後期初頭~前半は紀元1世紀代に相当する」

 

 「第四段階後半(後期中ごろ)には長宜子孫系の四葉座組内行花文鏡が副葬される」が、「これはそのまま焼溝漢墓の第五期に概当」し、「第五期は章帝代から質帝までで、16年~146年とされている」ので、「後期中ごろを2世紀前半とみる」

 

 「第五段階(後期後半~末)には長宜子孫系煽鯛座銀内行花文鏡が主流になり、獣首鏡の系統の鏡や半肉彫式獣帯鏡・半円方格帯神獣鏡もごく一部ながらみられる」が、「この傾向は焼溝漢墓の第六期と一致し、それは桓帝代から後漢最後の献帝までとされているから、147年~220年ということにな」り、「楽浪系の鏡は近畿に集積されており、洛陽のそれは北部九州に反映する」が、「洛陽の銅鏡が北部九州に反映する条件は彼地の情況から2世紀末が限度と思われる、から、後期後半を2世紀後半、末を3世紀前半と判断できる」

 

以上から、「森編年のIX式期の場合は焼溝漢墓六期に相当するから期間幅73年、焼溝漢墓五期に相当するⅧ式期は71年、焼溝漢墓三期後半~四期に相当するⅦ式期は68年、焼溝漢墓二期~三期前半に相当する中期後半のVI式期は70年、同様に一期相当の中期中ごろのV式期は54年にな」り、「おおよそ土器1様式の時間幅(小期)は約70年であることが理解でき」、「これまでも弥生時代の前期・中期・後期は確たる根拠を示すことなく各200年といわれてきたが、少なくとも中期と後期についてはそれを根拠づけることになる」

 

「北部九州の弥生時代の1つの土器型式、森貞次郎先生が設定された型式、ことに銅鏡などが副葬される立岩式や桜馬場式などとよばれる甕棺型式の時間幅は70年で、、前期・中期・後期はそれぞれ約200年間になり、それぞれが中国の戦国時代一前漢代―後漢代に併行する」

 

 高倉論文の指摘については、以前「布留0式再論」で論述したように一部異論がある。

 

漢の時代の次の魏(AD220年~AD265年)や、その次の晋(西晋)(AD265年~AD316年)の時代にどういう種類の中国産の銅鏡が盛行したのかについて、中国社会科学院考古学研究所の徐苹芳は、「魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡」は、「方格規矩鏡、内行花文鏡、獣首鏡、き鳳鏡、磐竜鏡、双頭竜鳳文鏡、位至三公鏡、鳥文鏡など」の、安本美典のいう「10種類の魏晋鏡」であるというが、これらのうち、位至三公鏡以外の銅鏡は後漢の時代の銅鏡と同じ種類である。

 

徐苹芳によれば、「位至三公鏡は、魏の時代に北方地域で新しく起こったもので、西晋時代に大層流行し」た、という。AD287年、AD295年、AD302年にあたる西晋の年号を刻んだ墓誌が出土した、洛陽の西晋の時代の洛陽晋墓からは、長宜子孫系蝙蝠座鈕内行花文鏡と位至三公鏡が多く出土し、そのうち、徐苹芳によれば、洛陽晋墓から出土した銅鏡の3分の1が、位至三公鏡であるという。

 

このように、漢の時代の次の魏や、その次の晋(西晋)の時代も、中国では、後漢の時代とほとんど同じ種類の銅鏡が盛んに使用されていたので、後漢の時代の銅鏡が出土した遺跡であるからといって、その遺跡が後漢末の時代の遺跡とは限定できない。

 

だから、高倉洋彰のように、弥生時代の後期末を20年前後に想定することはできない。古墳時代までには、焼溝漢墓の鏡の後に洛陽晋墓の鏡が副葬された時代があり、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が副葬されるのは、その後の布留式以降である。

 

 また、高倉論文では、弥生時代後期の第四段階のはじめを、焼溝漢墓の第三期後期のはじめの王莽新(7年~39年)とするが、寺澤薫の「弥生時代の年代と交流(吉川弘文館)」(以下「寺澤論文」という)によれば、土器と共伴する中国銭貨から、畿内弥生時代の後期の畿内第Ⅴ様式の始まりは1世紀第3四半期であり、北部九州弥生時代後期の始まりは「瀬戸内地域や近畿に比べて確実に一様式は古くな」るという。

 

 ここから、北部九州弥生時代後期の始まりを50年、畿内弥生時代後期の始まりを70年と仮定すると、高倉論文の編年と比べると、おおむね焼溝漢墓の第三期後期に相当する分がずれてくるが、中国や朝鮮半島との時間差を考えると妥当な差であると考えられる。

 

 また、東日本の弥生時代後期の開始は、さらに時間差を見込んで、100年であると考えられる。

 

 弥生時代後期のはじめを仮に80年とし、以前「布留0式再論」で論述したように、庄内式期のはじめは290年から300年であるので、仮にこれを290年とすると、弥生時代後期の時間幅は、210年となり、高倉論文によって1土器様式の時間幅を70年とすると、その間にはおおむね3っつの土器様式が存在するということになる。

 

 弥生時代後期を前葉、中葉、後葉に三分し、それらの土器様式の時間幅が均等であると仮定すると、中葉は150年から、後葉は220年からになり、前半と後半で二分すると、後半は、180年からになる。

 

 北部九州の弥生時代後期の土器編年は、寺澤論文によると、前半が高三瀦式期で後半が下大隅式期となるといい、西新式期は弥生時代終末期の庄内式期に並行するという。

 

 仮に実年代を推定すると、高三瀦式期が、70年から180年、下大隅式期が180年から290年となり、邪馬台国の卑弥呼の時代の土器様式は下大隅式期となる。

 

 高倉論文は、中国での銅鏡の盛行時期と日本での銅鏡の副葬時期があまり時間差がなく並行しているという前提に立っているが、寺澤論文が指摘するように、畿内から出土する貨泉は後漢初頭に鋳造された第Ⅲ類がその中心となっており、その出土状況からは、流入の時間差が存在したと考えられる。

 

また、高倉論文が「第五段階(後期後半~末)」の中国鏡について、「楽浪系の鏡は近畿に集積されて」いるという「楽浪系の鏡」とは、後漢鏡の形式の中国鏡ではあるが古墳時代になって副葬されたものを指しており、それは、古墳時代のことである。

 

そして、「洛陽の銅鏡が北部九州に反映する」という傾向は、それらの「洛陽の銅鏡」は邪馬台国と魏や晋との外交・交易によって北部九州にもたらされたものであるので、3世紀半ばのことである。

 

だから、高倉論文の「第五段階(後期後半~末)」の中国鏡についての年代推定は誤っていると考える。

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