デウスについて最低限知っておくべき3つのこと
◆驚異の音域を手にするため去勢した歌手・カストラートの物語◆
1994年のイタリア、ベルギー、フランス合作。ジェラール・コルビオ監督。(原題“Farinelli Il Castrato”)
18世紀に絶大な人気を誇ったイタリアのカストラート歌手・ファリネッリ(1705~1782)の半生を、実の兄との愛憎を中心に描いた作品です。
カストラートとは、近代以前のヨーロッパに存在した、変声期を迎える前に去勢された男性歌手のこと。
去勢することによって驚異的な音域を手に入れた彼らの歌声は、非常にもてはやされたといい、最盛期には何千人ものカストラートが活躍したそうです。
しかし、その美しい歌声のために失うものは、あまりにも大きい―――変声期前の幼い少年が、自らそんな運命を望むでしょうか?
この映画では、主人公カルロ=カストラートのファリネッリ(ステファノ・ディオニジ)に過酷な運命を強いたのは、実の兄・リカルド(エンリコ・ロー・ヴェルソ)。
作曲家のリカルドは、自分のオペラの花形スターとして、弟カルロを育てます。
兄は弟のために作曲・演奏し、弟は兄のために歌う・・・2人は音楽を通じて一心同体になるだけでなく、女性とのセックスという場面でも、お互いを補い合うことを「2人の間の約束事」にするほどの仲。
そんな、まさしく互いの半身である兄弟の絆に亀裂を生じさせたのは、カルロの潜在意識の中でくすぶり続ける、自分を去勢させた兄への蟠り、そして2人の才能の致命的な差―――
『アマデウス』(1984年)を彷彿とさせる音楽映画。カストラートの魔性の歌声がもたらす富と名声と究極のエクスタシーが、人々を狂わせていきます。
(声の合成技術によって再現されたカストラートの歌声は、本作の目玉の一つ)
◆音楽と女性を媒介に、絆を確かめ合う兄と弟◆
凡庸な兄が、華やかな容姿と類い稀な歌声を持つ弟の力を利用して、音楽興行の世界で成功を手にする・・・似たような構図は、いつの時代にも見られます。
それは寄生なのか? それとも、弟の才能を愛してやまない故だったのか。
はっきりと線を引くのは難しいものの、この物語の例に限って言えば、弟が失ったものと、それによって兄が得たものの大きさは歴然。
成功すればするほど2人の亀裂が深まっていくのは、当然のことかもしれません。
そんな、兄弟の確執の物語に見える本作。
ただ、それだけの話では終わらないことは、作中で主人公カルロが出会う難病の少年ベネディクトを通じて仄めかされているように思えます。
「これだけはたしかだ。(カルロは)僕が好きでしょう?」
と、一人では歩くこともままならない少年はカルロに問いかけます。
しかし、少年の言葉は、カルロの気持ちを言い当てていません。
このセリフから分かることはただ一つ、少年自身がカルロに(お互いに身体的制約を持ち性を謳歌できないという共感を超えた)秘めた好意を抱いている・・・ということです。
彼はカルロに、自分の母親(未亡人)と結婚してほしいと言います。
そうすることによって、カルロと親子になりたいと・・・ただ、少年はカルトと父親と息子という関係になりたいのではないことは、カルロの手が彼の体に触れた時の陶酔の表情からもうかがえます。
カルロが母親と結婚しても、彼は母と本当の夫婦にはなれないことを、聡明な少年は知っているはず。
ベネディクト少年にとって、カルロと母の結婚は、母親を媒介にしてカルロを独り占めにすること、それこそが彼の願い・・・そんな風に見えます。
この、「女性を介在させて絆を確かめ合う」という関係性は、まさしくカルロと兄リカルドの関係そのものでもあります。(このあたり、ちょっとデヴィッド・クローネンバーグの『戦慄の絆』を思い出しますね。)
彼らの、1人の女性を共同作業でエクスタシーに導くという行為からは、女性への愛よりも、カルロとリカルドの歪んだ、しかし異常なまでに強い絆がくっきりと浮かび上がって見えます。
それは、母を媒介としてカルロを手に入れようとする少年の登場によってさらに、禁断の匂いを増すのです。
カルロの歌声は、女性たちに感動を超えて「エクスタシー」をもたらす、奇跡の歌声。
その歌声に最も魅せられていたのは、兄リカルドだったのかもしれません。
(カストラートのファリネッリことカルロがもたらすエクスタシーに焦がれる女たち)
◆皆既日蝕で象徴的に示される、兄の深い喪失感◆
少年ベネディクトの登場と並んで本作でとても印象的なのが、皆既日蝕。
既にスペイン国王のお抱え歌手になっているカルロは、皆既日蝕という天体ショーを楽しむために集まった貴族たちの前で、歌を披露します。
長い間カルロを探し続け、漸く見つけ出したリカルドもその場に紛れ込むものの、王の側近くで歌うカルロには、近寄ることさえできません。
その間にも翳っていく太陽・・・月の影に覆われた地上は、暗闇の世界へ。
兄リカルドの、カルロを失った喪失感は、その時頂点に達します。
兄という呪縛を解かれて、弟は高みへと羽ばたいた。
しかし兄は、弟がいなければ生きられない―――
リカルドの喪失感がどれほど深いものかは、日蝕という現象そのものが雄弁に物語っています。
まるで唯一無二の恋を失ったがごとき絶望。この辺りにも何とも耽美な雰囲気が漂っています。
◆ハイドンへの憧れとの葛藤には中途半端さも・・・◆
本作には、大衆受けを狙った通俗的な音楽しか作れない兄リカルドと対照的な存在として、ハイドン(1932~1809)が登場します。
カルロは純粋に芸術性を追求するハイドンの音楽の世界に憧れ、興行至上主義の兄の音楽を批判。これが兄弟の溝を深めていく一因になっていきます。
ハイドンの音楽は同時代人には必ずしも理解されなかったようですね。
そういう意味では、ハイドンとリカルドの関係は、『アマデウス』に描かれた、生存中は常に金欠で破綻した生活を送っていたモーツァルトと、皇帝お抱えの作曲家ながらモーツァルトの才能に深く嫉妬していたサリエリの対立関係に近いものが。
ただ、ハイドンとカルロ
・リカルド兄弟との互いに対するアンビバレンツな感情の描き方は中途半端で、ハイドンのような真の音楽性を求めるカルロの姿と、その後スペイン王室お抱え歌手になって優雅に暮らしたカルロの現実とは、どうも重なり合いません。
そこは、モーツァルトとサリエリの互いへの感情を鋭い洞察力で抉り出した『アマデウス』の方がはるかに面白い気がします。
そういう点でも、この作品の目玉と言えるのはやはり、禁断の領域にまで踏み込んだ兄弟の耽美な愛憎劇ではないでしょうか。
妖しくも危うい、愛に似た兄弟の絆・・・そういう目線で眺めるには最高の物語だと思います。
腐女子的すぎますか?(笑)
とりあえず、個人的にはたいそうオススメの作品です。
(左から、カルロ・リカルド・ハイドン)
(画像出典:ポスターはIMDB。その他の作品画像は 日蝕画像はフリー素材)
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ヨーロッパでデウスが問題化
やぁ、チームの「デウスユニットをフルセット揃えたらチームメンバーから妬みの視線を受けるようになってしまった」男、レイジだ。