私はジョーカーで人生が変わりました
ありがとうごさいました?!!
↑ハゲのままのほうがいいよジョーカー
ジョーカーは見た目が9割
こんにちは。城メグリストこと萩原さちこです。
今週は、北条氏政のことを。
いやいや、すっかり有名になりました、北条氏政。
大河ドラマ「真田丸」の高嶋政伸さんの光る怪演は、かなりのインパクトを放っていましたね。
世の中は敗者には厳しいので、北条氏を滅亡させた愚かな人物としてさらりと描かれてきましたが、刹那みたいなものも感じられて、人間味あふれる氏政公像が誕生したのではないかと思います。
というわけで、もはやさほどの説明はいりませんが…。
北条氏政は、北条氏4代当主で、北条氏康の次男。
兄・新九郎が夭折したために世子となります。
45歳の氏康が隠居すると若くして家督を相続しますが、存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きます。
氏政さん、いかんせん評価が低いことで知られます。父・氏康の後見がなくなった途端に無能っぷりが露呈し、北条氏を滅亡へと導いた…というのが一般的な評価ではないでしょうか。
後世成立の『北条記』で上記のように語られ、同書では北条5代の当主の中で唯一「君」もつけられていないというリスペクトされなさっぷりです。
しかし実際には、氏康が没したタイミングで織田信長と豊臣秀吉が台頭してきちゃったんですよね…。
ま、そこで生き延びていけなかったのは事実ではありますが。
北条氏の版図を最大にしていたりもするわけでもあり、信長没後には滝川一益を関東から追い出しているわけでもあり。
それなりに、褒められる一面もあろうかと思います。
最後は…秀吉より、佐竹ばかり気にしていたんでしょうかね(笑)
氏政の無能っぷりを表すエピソードとしてよく語られるのが、汁かけ飯。
そうです、「真田丸」での初登場シーンで氏政が汁かけ飯を食べていたことに歴史ファンがどよめいたのはそのためなのです。
その逸話というのは、食事のときのこと。
ごはんに味噌汁を二度かけた氏政に対して、父・氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と言ったといわれます。
「汁をかける適量も量れない者に、領国や家臣を推し量ることなど出来るわけがない」と嘆いたというわけです。
この逸話は後世の創作だそう。
やはり北条家を滅亡させてしまった氏政へのアレなんでしょうかね。
で、思惑通り、低評価につながる逸話として定着してしまっています。
しかし、すてきな一面も。
あまり語られませんが、家族思いの人物だったようで、愛妻家でもありました。
正妻の黄梅院は武田信玄の娘だったため、信玄が駿河へ侵攻すると離婚させられていますが、氏政は最後まで離婚を渋っていたとか。
そして、氏康が没し武田と和睦すると、すぐに黄梅院の遺骨を貰い受けて手厚く葬っています。
…これは、女子にとってはかなりのプラスポイント!
弟とも仲がよかったようですよ。
上杉・武田と戦いながら版図を拡大できたのも、家族の絆が固いかったこそなのでしょうね。
さて、先日は久しぶりに小田原城の北条氏時代の遺構を歩いてきました。
小峰御鐘ノ台大堀切から城源寺竪堀まで、総構の遺構です。
このラインだけでも歩くと、小田原攻めのイメージが変わるんじゃないでしょうか。
双方の戦略含め、いろいろ腑に落ちることが多いはずです。
理論とは別のところにある、当時のうごめきや切迫詰まった感、そんな状況下での北条時代の技術力の高さもわかりますよ。
稲荷森がすっきりと間伐され、堀底へ降りられるようにもなっていました。
ここは、すごい戦闘空間です。
土木量もそうですが、常に侵入者に対する多方向からの射撃空間が確保されていて、横堀の使い方、緻密な設計が北条氏らしい。
小峰御鐘ノ台大堀切は実は戦闘空間としては苦し紛れだけれど、こちらのほうがきちんと、機能性を計算した上で落ち着いて構築されている感じです。
少し先立ってつくられていたのかもしれません。
?
では、今週はこのへんで。
来週もよろしろ~。
萩原さちこ(城メグリスト)
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